華清宮温泉
兵馬俑から6キロメートルと近く、唐の時代から皇帝や貴族たちが湯治を楽しんだ温泉地です。1936年の「西安事変」の舞台としても知られ、中国の歴史が動いた瞬間を実感できます。
地中に2200年眠っていた、8000体の等身大の兵士たち。混雑を避ける時間帯や写真スポットを押さえて、世界最大級の地下軍団を見学しましょう。
紀元前210年ごろ、秦の時代に造られたものです。2200年以上の時を経て、1974年まで誰の目にも触れませんでした。
約8000体の兵士、130台の戦車、520頭の馬、150頭の騎兵馬が収められ、3つの巨大なピットの総面積は22780平方メートルにも及びます。
3月~11月:午前8:30~午後6:00
12月~2月:午前8:30~午後5:30
月曜定休(祝日を除く)
チケット料金、アクセス方法、混雑回避のコツ。出発前に押さえておきたい情報をまとめました。
兵馬俑博物館は、西安の中心部から東へ約40キロ(25マイル)離れた臨潼区にあります。移動手段によって所要時間が大きく変わるので、以下を参考にしてください。
観光バス(おすすめ): 西安駅の東広場から観光バス5号線(専線5)に乗るのがいちばん手軽です。7:00~19:00まで10~15分間隔で運行しており、所要時間は約1時間。料金は片道約150円と、お財布にもやさしいです。
路線バス: 西安駅から307番のバスに乗ります。所要時間は約1.5時間、片道約170円。車内は混み合いますが、窓から西安の人々の日常を眺められるのは路線バスならではの楽しみです。
専用車: ドライバー付きの専用車なら、往復で約8,400~12,600円(待機時間込み)。ホテルまたは旅行代理店で手配できます。荷物が多い方やグループ旅行には、この選択肢が断然楽です。
タクシー: 中心部から片道約3,150~4,200円。ただし、帰りのタクシーはなかなか捕まらないのが難点。ドライバーに待ってもらうか、迎えの時間を約束しておくと安心です。
実はピット2は、ピット1よりずっと空いています。有名な跪射俑もここにあり、保存状態は抜群。足を運ぶ価値は十分にあります。
出口そばの青銅の馬車、忘れがちですがこれが圧巻です。半分のスケールの模型ながら、小さな取っ手や装飾の細部が2200年を経た今もくっきりと残っています。
現地で長年働いてきたガイドを頼むのもおすすめ。発掘の裏話や、あの農民たちのエピソードはガイドブックには載っていない話ばかりです。
半日あれば寄れる名所ばかり。帰りの移動もスムーズに組み立てられます。
兵馬俑から6キロメートルと近く、唐の時代から皇帝や貴族たちが湯治を楽しんだ温泉地です。1936年の「西安事変」の舞台としても知られ、中国の歴史が動いた瞬間を実感できます。
始皇帝の本当の墓は、いまだ開かれていません。それでも現地に立てば、この丘の下に何が眠っているのか、想像せずにはいられません。古文書には、黄金の宝物や罠で守られた地下宮殿のことが記されています。
ハイキングコースや古い寺院が点在する風光明媚な山です。秦の始皇帝は風水の教えに従い、この山の「守りの気」に守られる場所を陵の位置に選んだと伝えられています。頂上からの眺めもおすすめです。
1974年、井戸を掘っていた農民のシャベルが、2200年の時を経て歴史の扉を開きました。
そもそも兵馬俑は、人に見せるためのものではありません。紀元前210年、秦の初代皇帝・始皇帝が「あの世でも命を守らせたい」と願い、墓のそばに埋めさせた粘土の軍団です。その存在を知る者はおらず、1974年に農民のシャベルが当たるまで、2200年以上もの間、整列したまま土の中でひっそりと待ち続けていました。
実際に現地に立って最初に驚くのは、「8000体という数の多さ」ではなく、一人ひとりの顔が違うことです。口ひげを蓄えた歴戦の兵士、あごひげの精鋭、ひげの薄い若兵士——髪型は階級ごとに変わり、鎧のデザインも部隊によって異なります。考古学者たちの間では、始皇帝の軍に実在した兵士をモデルにしたという説が有力です。
観覧席の柵越しに軍団を見渡すと、これが土でできていることを忘れてしまいそうです。あまりに生き生きとした表情の連続に、「いつ隊列が動き出してもおかしくない」と思えてしまうのも無理はありません。秦の工匠たちは、まさにその効果を狙って一体ずつ魂を吹き込んだのでしょう。
兵馬俑の中で最大、そして最も迫力のあるピットです。戦闘態勢を整えた歩兵の隊列がびっしりと並び、まさに軍団の本隊というたたずまい。観覧通路を歩けば、破片の状態から完全に組み立てられたものまで、修復のさまざまな段階にある戦士たちを見られます。
弓兵、騎兵、戦車兵など、秦の軍隊の多彩な顔ぶれがそろうピットです。なかでもひざまずく弓兵は、兵馬俑全体を代表する像のひとつ。職人の技がいちばん光るのがこのピットだという声も多く聞かれます。
「ピット2は細部が本当にすごいんです。顔の表情も、鎧の模様も、靴の裏まではっきり見えますよ。」 — ツアーガイド・張敏
いちばん小さなピットは、いわば軍団の「司令部」。高級将校や戦車が配置され、他のピットの圧倒的な規模とはひと味違う、落ち着いた趣があります。複雑な馬具で飾られた戦車の馬も、ぜひじっくり眺めてみてください。
ピット3は最小ながら、いちばん興味をそそられる区画です。将軍や高官とみられる俑が集中し、まさに軍団の中枢といった構成になっています。
8000体の兵士を作り上げたのは、現代の工場にも通じる驚きの量産方式。その秘密をひも解きます。
実は兵馬俑、現代の工場顔負けの「組み立てライン」方式で作られていました。胴体は型を使って量産され、考古学者は8つの基本的な体型を確認しています。一方、頭部は一つひとつ手彫りです。ここに量産と個性を両立させた秘密があります。
「まるで工場システムのようでした」と、陶磁器の専門家・劉建国さんは説明します。「基本の部品を大量生産してから、職人が一体ずつ個性的な仕上げを施しました。だからどの戦士も同じ顔ではありません。量産でありながら、全部が一点ものなのです。」
発掘されたばかりの頃、戦士たちの表面にはピンクや青、赤、紫などの鮮やかな塗料が残っていました。ところが空気に触れると、数分のうちに酸化して剥がれ落ちてしまったのです。つまり軍団は、もともと今のようなテラコッタ色ではなく、極彩色に彩られていたというわけです。
いまの発掘現場では、この色彩を守るための特別な技術が使われています。試掘されたピットからは、ピンクの顔に鮮やかな赤の鎧、緑や青、紫の袍をまとった戦士が見つかり、当時の軍団の華やかさをかいま見ることができました。
兵士たちはもともと、本物の武器を手にしていました。青銅の剣、槍、弩——そして発掘された多くの武器は、2200年を経ても刃先が鋭いままだったのです。分析によると、武器にはクロムのコーティングが施されており、同じ技術が西欧で「再発見」されるのは20世紀まで待たなければなりませんでした。
考古学者の中には、兵馬俑を含む始皇帝陵全体の建設に、約70万人もの労働者が動員されたと推計する人もいます。ボストン市の人口に匹敵する人々が、一つの墓を造るために集められたことになります。
干ばつで水を求めた農民たちの必死の探索が、20世紀最大の考古学的発見につながりました。
時は1974年の春。陝西省は記録的な干ばつに見舞われ、西陽村の農民たちは作物を救うために井戸を掘っていました。そのとき、楊志発のシャベルが約4.5メートルの深さで、何か硬いものにぶつかったのです。
最初は、古い窯跡か陶器のある墓地でも掘り当てたと思ったようです。ところが掘り進めると、等身大の粘土の頭部が現れ、次いで腕、そしてさらにたくさんの破片が見つかりました。
「水がほしかっただけなんです。シャベルが硬いものに当たって、土器の頭が出てきました。掘り続けると腕や脚、胴体も出てきて、自分たちが何を見つけたのかさっぱり分かりませんでした。村のなかには、悪霊じゃないかと怖がる者もいました。」 — 発見者の一人・楊志発
奇妙な出土品のうわさは、すぐに地元当局へと伝わりました。最初に現場へ駆けつけた専門家が、考古学者の趙康民です。彼は一目でこの発見の重大さに気づき、ただの粘土像ではなく秦の時代の遺物だと見抜きました。
「本当に驚きました。こんなものは見たことがありませんでした。製作技術から見て秦の時代のものだとすぐに分かり、これは特別な発見になると確信しました」と、趙さんは後に振り返っています。
1974年7月には考古学者のチームが到着し、発掘調査が始まりました。そこで見つかったのは、数体の像などではありません。隊列を組んで配置された、地下の軍団そのものだったのです。
この発見は、中国が歴史の転換点を迎えていた時期と重なります。文化大革命が終わりに近づき、中国が世界へ扉を開き始めた頃のこと。1975年には、外国人による発掘現場の見学が初めて許可されました。
そして1978年、ナショナルジオグラフィック誌に兵士たちの写真が掲載されると、事態は一変しました。世界中がこの神秘的な粘土の兵士に夢中になり、西安を訪れる観光客は爆発的に増えたのです。
いまや兵馬俑は中国を代表する文化遺産のひとつ。ユネスコの世界遺産にも登録され、毎年500万人以上の人々が訪れています。そのすべては、作物に水をやりたいと願った農民たちの「井戸掘り」から始まったのです。
発見の功労者となった農民たちが受け取ったのは、一人あたり約630円(当時約5ドル)というささやかな報酬でした。最初にシャベルを当てた楊志発さんは、その後博物館の敷地内で働きながら、訪れる観光客の本にサインをしていました。「水の代わりに兵馬俑を見つけたことを後悔しませんか」と聞かれると、彼は笑顔でこう答えたそうです。「水よりもずっと素晴らしいものを見つけました——私たちの歴史です。」
ガイドブックには載っていないエピソードを厳選。見学がもっと楽しくなること間違いなしです。
8000体を超える戦士は、顔立ちも髪型も表情も、すべてが別々です。考古学者たちは、始皇帝の軍に実際にいた兵士をモデルにしたと考えています。モンゴル系の顔立ちの者もいれば、中央アジア系の特徴を持つ者もおり、当時の中国がいかに多様な人々で成り立っていたかがうかがえます。
造られた当時、戦士たちは赤や青、緑、紫といった鮮やかな色で彩られていました。発掘時にはまだ多くの色が残っていたものの、空気に触れた瞬間に酸化して剥がれ落ちてしまいました。現在も科学者たちは、残された色素を守る技術の研究を続けています。
戦士たちと一緒に出土した青銅製の武器にはクロムがコーティングされ、2000年以上も錆びませんでした。同じ技術が西欧で「再発見」されるのは1930年代のこと。多くの剣は発掘時も鋭く、弩の引き金に至っては今でも動く可能性があったといいます。
戦士たちは、いわば「組み立てライン」方式で生産されました。胴体は型を使って作られ(8つの基本型が確認されています)、頭部は一本ずつ彫刻して後から取り付けられています。個性を残しつつ大量に造る工夫が、ここにあります。
実は、いま見られるのは全体の約30%だけ。保存技術が十分に進むまでは、あえて掘り起こさずに眠らせているのです。地中レーダーによる調査で、まだ多くの戦士たちが地下で待機していることが分かっています。
歴史の記録には、秦始皇が墓の秘密を守るため、工事に携わった職人たちを生きたまま埋めたとあります。近年の調査では現場近くから若い男性の集団墓地が見つかっており、記録が本当だった可能性も指摘されています。
表情や装備の細部まで、現地で撮影した写真をじっくりご覧ください。
興味から日別ルートを自動生成し、徒歩時間と予算を確認。自分で微調整もできます。